2025/03/18

学級だより №257・258

 № 257・258 2025年3月11日


 言葉は「生き物」です。

 例えば、「貴様」という言葉。もともとは、「あなた様」であったのが、江戸後期から目下や同輩に対して、もしくは罵る言葉として使われるようになりました。

 また、「鳥肌が立つ」という言葉。もともとは、恐い時や寒い時、あるいは不快感を表すのに使う言葉ですが、今では、「感動した」「素晴らしい」という場合にも使われるようになりました。

「新(あたら)しい」という言葉も、もともとは「新(あら)たしい」でした。それが江戸時代に「あらたし」をひっくり返して「あたらし」と言うようになり、それがいつしか正しい言葉になっていったそうです。

 言葉が時代とともに変化するのは、ある意味、当然のことなのかもしれません。

 とは言っても、前号の投稿記事にあるように、「自分の感じたことを多様な形で表現する」ことや、「時と場合にあった言葉遣いをする」こと、これらはとても大事なことであると思います。

 それは、時代が変わっても同じでしょう。

 ところで、以前受け持ったクラスで、ある保護者の方からこんなことを言われました。

「学級だよりに、子どもたちのしゃべっている場面が出てくることがありますね。それを読んでいると、どれもとてもていねいな言葉を使っているのですが、はじめは本当かなと思っていました。でも、学校公開で子どもたちの様子を見て得心しました。子どもたち、みんな立派ですね。」

 そこで、

「そうなんですよ。学級だよりに書いていることは、子どもたちの言葉そのままです。

 私に『ため口』をきく子はいません。」

 このクラスの子たちも、みんなそうです。

 ちなみに、ため口の「ため」とは、博打用語で「ぞろ目(同目)」を指した言葉だそうです。それが、1960年代から「五分五分」の意味で使われるようになり、その後、「対等」や「同じ」という意味でも使われるようになりました。さらに、「同年」「同級生」という意味にもなり、同い年の相手に話すような口のきき方を「ため口」というようになったそうです。


 話は変わって――

「了解しました。」という言葉を耳にすることがよくあります。また、「了解です。」と言う人もいたりします。

 部下が上司の指示や要請に対し、「分かりました。」という意味で使うようです。しかし、「了解」とは、「物事の内容や事情を理解して承認すること(デジタル大辞泉)」です。「承認」ですから、「了解」は、本来は、上の者が下の者に対して使う言葉です。

 それなのに、下の者が「了解しました。」を使うなんて、おかしいなぁ──この言葉を聞くたび、違和感を覚えます。また、「了解しました。」なら、まだ、ていねいな感じがしなくはないですが、「了解です。」は最悪です。

 ここはやはり「承知しました。」や「かしこまりました。」を使ってもらいたいもの。せめて「分かりました。」とすべきかなと思います。

 言葉は、時代と共に形を変えていく「生き物」であるとは言え、子どもたちには、正しい言葉を伝えていかなければいけないと思います。

 かく言う私も、間違った日本語を何気なく使っているかもしれません。気をつけなければ・・・・。


 余談ですが。

 私の住んでいる地区で、地方議会議員選挙があったときのことです。その選挙運動最終日に、ある候補者が選挙カーに乗って、家の前を通り過ぎました。その際、「最後のお願いに参りました。」と言いながら。

 ところが、それからほんの数十分後、また、家の前の通りに入ってきました。

「さっき、『最後のお願い』と言ったはずなのに。」──そう思ったのですが、その時、何とこう言ったのです。

「最後の最後のお願いに──。」

 その数十分後には、「最後の最後の、最後のお願いに──。」

 この候補者にとって、「最後」とは「一番おしまい」ではないのですね。

2025/03/11

学級だより №253

 № 253 2025年3月6日


 今日も百人一首についてです。

「百人一首をしましょう。」

──私がそう言うと、子どもたちはすぐに机の向きを変えます。そして、みんなで協力してカードを並べていきます。

 ゲームもテンポよく進んでいきます。

 とは言っても、はじめからそんなふうにできたわけではありません。

 百人一首には、ふだん使うことのない言葉が数多く使われています。なじみのない言葉です。ですから、ゆっくり読まなければ聞き取れません。

 また、札を取ると、うれしさのあまり、「やったー!」といった大声を出してしまいがちです。なかなか静かになりません。

 さらに、トラブルも起きたりします。

「私の方が先よ」「ぼくの方が速かったよ」「今のお手つきだよ」「お手つきなんかしていないよ」

──こういった調子ですから、ゲームが進んでいきません。はじめのうちは、1ゲーム(20枚)を終えるのに、すごく時間がかかってしまいました。

 このように書くと、このクラスは問題あり──というふうに聞こえるかもしれませんが、そういうことではありません。どこのクラスでも起こることです。むしろ、少ない方です。また、逆にはじめから何のトラブルも起きずスムースに進んだとしたら、その方が不思議な感じがします。

 さて、百人一首は楽しいですから、たとえどんなトラブルが起きたとしても「またやろう!」ということになります。

 そして、何回もやっていくうちに、「うるさくすると迷惑がかかる」「『自分が先だ!』と主張し続けるのはみっともないことだ」といったことを、体で理解できるようになります。

 ここまでくれば、しめたものです。

 そう言う意味では、百人一首というのは、「生きた道徳」であるとも言えます。もちろん、子どもたちには道徳の授業を受けている、などという意識はないでしょうが。

 子どもたち、すごいです。

2025/03/10

学級だより №252

  № 252 2025年3月5日


 今日は、百人一首についてです。

 4月から取り組んでいる百人一首の暗唱。みんな、とてもよくがんばりました。

 現在、100首全て暗唱した子は、24人。歌だけでなく、歌人の名前を覚えている子も数多くいます。

 そして、この暗唱は、子どもたちが自主的に行っているものです。「覚えなさい!」などと、担任が強制していることではありません。

 子どもたちが進んでやっていることなので、ゲーム自体もみんな大好き。

 札の入っている箱をみんなの前に持って行くと「やったぁ! 百人一首だ。」という感じになります。

 そして、札を取る速さもなかなかです。ほぼ全てのグループが、上の句を読んでいる間に札を取ってしまいます。速い子達の集まっているグループでは、はじめの2~3文字を読むか読まないかの間に取ってしまうのです。

 ですから、ゲームにかかる時間も短くてすみます。100首全部をやり終えるのに、15分もあれば十分。もちろん、準備と片付けの時間を含めてです。1枚にかかる時間は、正味6~7秒といったところでしょうか。

 こんな感じですから、授業で勉強することが早く終わった時など「百人一首でもやろうか」みたいにすることができます。

 ゲームに臨む姿勢も素晴らしいです。私は、札を読む時、わざと声のトーンを落として小さい声で読んでいるのですが、それでも、一番遠いところにいる子達も十分に聞き取っています。

 1ゲームは20枚ずつ、それを5ゲームするのですが、ゲームの合間合間の準備や片付けもみんなが協力しあってやっています。遊んでいたり、人任せにしている子はいません。

 歌をよく覚えていて、みんな協力的──そのおかげで、15分という短い時間でできるわけです。

 中学校では、多くの学校で「百人一首大会」をすると思いますが、この子達を連れていったら、きっと上位を独占することでしょう。

2025/03/08

学級だより №251

 № 251 2025年3月4日


 今日は、理科「じしゃくのせいしつ」についてです。

 先日の授業では、こんな「装置」を用意しました。

 クリップが空中に浮いている様子を見て、子どもたちはとっても不思議な感じがしたようです。

 そして、こんな問題を出しました。

「磁石とクリップの間に紙を入れます。クリップは落ちるでしょうか。」

 子どもたちの多くは「落ちない」と考えました。紙は薄いから──というのがその理由です。

 実際にやってみると──クリップは全く動きませんでした。子どもたちは「やっぱり」という表情でした。

 そのあと、「教科書」「布」「プラスチック製の下敷き」「竹のものさし」「銅板」を入れたらどうなるか考えました。子どもたちの多くは、これらを入れても「落ちない」と予想しました。やってみると──やはり、どれでためしても落ちませんでした。落ちないどころか、クリップは全く動かず。

 最後に鉄板を入れることにしました。これについても、子どもたちの多くは「落ちない」と予想しました。「銅板でも落ちないのだから、あんなに薄い鉄板を入れても落ちるわけはない。」──これが主な理由です。

 しかし、鉄板を近づけると──クリップはゆらゆら揺れ出しました。そして、間に入れると、ストンと落ちてしまいました。何度やっても同じ結果に。

 磁石の持つ磁力が鉄板でとどまり、クリップに届かなくなったため落ちたのです。

 この結果に子どもたちはビックリ。

 そのあと、はさみを開いて近づけ、チョキンとやると、やはりクリップは落ちました。

「何だか、糸が切られたみたい。」

2025/03/03

学級だより №249

№ 249 2025年2月28日


 前号のつづきです。

 ずっと以前、△△図書館に行ったところ、「不用本交換コーナー」に葉隠の原語と訳の書いてある解説書が置いてありました。読んでみると結構おもしろいのです。もちろん訳しか読んでいませんが。

 ちなみに、「はしがき」には、こう書かれていました。


      はしがき

「葉隠」という文字を見たとき、現代人の反応はさまざまであろう。戦前派および戦中派のあるものは、懐旧の思いをめぐらし、あるものは、ほろ苦い表情を示すに違いない。そして、戦後派のあるものは、「ハガクシ?」と首をかしげるかもしれない。

 佐賀藩に伝わる武士道の秘本「葉隠(はがくれ)」が「武士道とは死ぬることと見つけたり」の一節によってのみ記憶され、戦時中、若者達を死地にかりたてるスローガンとして乱用されたために、この古典が現在、正当な評価を受けていないのはやむを得ないことであったろう。終戦直後、占領軍の目をおそれてこの本を焼いた者もあったと聞く。

 だが、今日、冷静に読み直してみると、われわれはそこに学び取るべき多くのものを発見する。

     ──中略──

 もちろん、葉隠は封建制度を絶対的なものとして容認している。その成立条件を考慮することなく、現代に再生しようとすることは、ミイラに口紅をさすにひとしい。だが、泰平ムードの今日こそ、葉隠の中から前向きにくみとるべきものが少なくないのではあるまいか。

     ──後略


 こうしてみると、子育てというものは、いつの時代であっても本質的に変わることはないのかな、そんなふうに感じました。

 子どもを感情的に怒ってしまい、あとで「あ~あ、あんな言い方しなくてもよかったなぁ」・・・・こんな経験、だれもがお持ちだと思います。もちろん、私も。

 昭和36年頃の親も、江戸時代の親たちも、きっと同じような思いをしていたのでしょうね。そして、きっと未来の親である、このクラスの子たちも・・・・。 

学級だより №266