2025/03/28

学級だより №266

 № 266 2025年3月21日


 江戸時代中期に活躍した儒学者に、細井平洲という人がいます。米沢藩の名君、上杉鷹山の師としても知られた学者です。

 この細井平洲が、教育について、こんなことを言っています。


教育とは、菊好きな人間が菊を作るようにしてはならない。

百姓が、野菜や大根を作るようにすべきなのだ。


 なぜ、菊を作るようにしてはならないのでしょうか。

 それは、菊を作る人には、自分の理想の「菊」があって、それにあわないもの、欠点が目につくものを摘み取ってしまうからです。2つか3つのつぼみを残して摘み取り、そのうちのたった1つで大輪の花を咲かせます。菊作りには素晴らしい方法でしょうが、子育てにあてはめるのは、大きなマイナスです。

 では、農民が野菜を作るときはどうでしょうか。

 欠点のあるものを、捨てるということはありません。畝に芽を出したものも、日陰で懸命に育っていくものも、大切に大切に慈しんで育てます。

 子育てとは、このように、一人ひとりすべてを大切に育てていくことです。

 条件が違っても、相手にあった方法で育てていくことです。

 ──現代は、江戸時代とは異なり、規格に合わない野菜は排除されるような傾向にあります。曲がったキュウリや大きさの合わないカボチャなどは、廃棄されたりしてしまいます。ですから、この言葉がそのままあてはまるわけではありません。

 しかし、この考え方は好きで、いつもかくありたいものだ、「野菜作り」をしたいものだと思っています。

 とは言いつつ、実際は「菊作り」をすることが多かったかなと反省しきりの1年間でした。

 こんな担任でしたが、子どもたちはいろいろな面でとてもよく頑張ってくれました。教えるべき立場である私が、逆に教えられることもしばしばでした。

 保護者のみなさまには、1年間、大変お世話になりました。本当にありがとうございました。                                   (終わり)

2025/03/24

学級だより №265

 № 265 2025年3月19日


 以前、近所の方から聞いた話です。

「この間、私の義父が家で転び、動けなくなってしまいました。とても歩ける状態ではなかったので、急いで救急車を頼んだのですが、その際のことです。

 私は、救急車に一緒に乗り、病院に向かいました。

 救急隊の方は、みなさんとてもいい方ばかりでした。いろいろ声をかけてくださり、動転しかけていた気持ちも落ち着きかけてきました。

 ところが・・・・。

 交差点に差しかかったときのこと、

 その先の信号は「赤」になっていました。そこで、救急隊の方は

『赤信号ですが、救急車は直進します。ご協力ください。』

と、アナウンスをしました。

 こちらは緊急車両なのですから、まわりは譲ってくれるだろうと思っていたのですが・・・・。

 目の前には、自分たちは青信号だから当然とばかり、横断歩道を堂々と渡っていく学生の集団が。

 救急車は、その列がとぎれるのを待つしかありませんでした。

 その時間がなんと長く感じたことか。

 この様子を見た、救急隊の方曰く

『この頃は、こういう若者が多くて困っています。昔はこんなことはなかったのですが。』」

 ちなみに、この「学生の集団」は、毎年、東大に大勢送り出している、超有名な進学校の生徒だとか。

「勉強ができることは素晴らしいことかもしれません。そして、そのために努力もしてきたことでしょう。しかし、その前に、人として学ぶべき、身につけるべき大事なことがあるのではないでしょうか。

 うちの場合は、生死を分けるようなけがではなかったのでまだいいのですが、これが、本当に緊急を要するような方が乗られていて、仮にそのために、もしものことになったとしたらと思うと・・・・。」

学級だより №264

 № 264 2025年3月18日


  その昔、江戸は人口100万人の巨大都市でした。それに対して、お巡りさんの数はわずか30人足らず。それなのに、殺人事件は1年間に1件があったかどうかだったそうです。

 どうしてそんなに治安がよかったのでしょうか。

 作家でコラムニストの金平敬之助氏は、こう言っています。

「(それは、相手を思いやろうという)しぐさや言葉があったからです。しぐさや言葉が汚いと反発をくいます。それを江戸の人は知っていたから、皆で注意しましょうとしぐさや言葉を教えたのです。

 260年間も平和を続けた国が他にどこにあるのでしょう。人間関係を良好にする知恵が、世界最高のレベルに達していたのです。

『お茶が入りました』という言い方がありますね。でも、お茶は勝手に入りますか。『お風呂が沸きました』──お風呂が勝手に沸きますか。ヨーロッパ人だったら、俺が薪を割ったのだ、俺が水を汲んだのだ、と必ず言います。ヨーロッパの人にはノーとはっきり言わないと伝わりません。日本人は、相手に負担をかけないような表現をします。これが奥ゆかしさ、相手を思いやるすごさです。

 これに対し──。

『そんなことを言うのは3年早いよ!』『お父さん古いよ!』『この年まで何やってきた!』

 このような、相手が何もいえない状態や返事のしようのない言葉を『戸締め言葉』と言います。江戸時代は、これを大変嫌ったのです。

『舌の紡ぎ出す言葉は、どんな切れ味のよい刃よりも猛毒を塗った矢よりも強い』

 刀の傷というのは治りますが、言葉の傷は治りません。だから江戸時代には『あいすみません』が多く使われました。理由は濁音がないからです。それほど言葉に神経を使っていたのです。」

 ある人は、

「戸締め言葉は、人の和を崩したり、人を傷つける最悪の言葉なのです。特に、家庭で、子どもに対して戸締め言葉を使うと親子の関係も複雑になり、子どもは心を開くことをしなくなります。」

と言っています。

 言葉って、大事ですよね。いくら思いがあっても、言葉を発しなければ伝わりません。そして、その言葉次第で、相手の気持ちは良くも悪くもなるというもの。

 こういう私自身が「戸締め言葉」をたくさん言っているような・・・・そんな気がしています。反省、反省。

2025/03/22

学級だより №261

 № 261 2025年3月14日


 先週、子どもたちにこんなクイズを出しました。

 時は18世紀。今のロシアに「ケーニヒスベルク」という街があり、そこに、「プレーゲル川」という川が流れていました。この街の住人がある日こう考えました。「街にある全ての橋を一度しか渡らずに全部回

れないだろうか?」と。そこで、街中の知識人が集まりあって挑戦しました。さて、どうやったらできるでしょうか。


 子どもたちは、一斉に鉛筆を持ち、線をひいていきました。しかし──。

 なかなかうまくいきません。いろいろ試してみたのですが、どうにも「正解」が見つからないのです。

「先生、橋を一本つけたしてもいいですか。」

「この橋を“爆破”すれば、できるんだけれど・・・・。」

 もちろん、その二つとも×です。

 そして、しばらくして、ある子が 「こんなの『無理』だよ。」

 

 実は、この問題、その子が言ったとおり「無理」なのです。「街にある全ての橋を一度しか渡らずに全部回れないだろうか?」──それはできないことです。


 上の地図を簡略化すると左のようになります(太線は、橋を表しています)。

 まるで、一筆書き、というか、正に一筆書きです。

 一筆書きというと、右のような問題をよく見かけます。ちなみに、これは一筆書きでかけます。

 右のような図形は一筆書きができますが、左はできません。一筆書きができるためには、数学的な条件がそろっていなければいけません。ということで、上の問題は、れっきとした数学の問題なのです。そして、数学には「できない──解なし」という答えもありますよね。

 もっとも、子どもたちは数学をしているなどという意識はなかったことでしょうが。


2025/03/19

学級だより №260

 № 260 2025年3月13日


 今日は、保健の学習について。

 3年生から始まった保健の学習。健康や人体、心に関することなど、その学年に応じて学習をしていきます。授業の時間は年に数時間ですが、しっかり勉強してもらいたいと思います。

 さて、先日はこんなことをしてみました。

 まず、子どもたちにコットンを1枚ずつ渡し、

「これを水に濡らしてしぼってきましょう。」

と伝えました。

 準備ができたところで、

「このコットンで手をふいて、よごれがついているかどうか、ためしてみましょう。」

 子どもたち、さっそく始めました。すると、

「わー、黒くなった。」「ぼくも。」「私のは、全然黒くならない。」

──そんな声があちらこちらから。

 ちなみに、この授業は3年生を受け持ったときには必ず行うようにしていますが、今までで一番成績が良かったのは、2年前に受け持った3年生です。コロナ禍のこともあり、登校時、20分休み・昼休みのあと、給食の前など、だれに言われなくてもすすんで手を洗っていました。

 それに対して、今は、手洗いをしなければいけないという意識が薄れてきたような――そんな感じがします。ご家庭では、きちんと洗っているでしょうか。

 授業では、そのあと、教科書に載っている右の写真を見ました(写真は略)。手を洗う時、水だけではほとんど効果がないことがわかります。

 また、きちんと洗うには1分ほど時間が必要だとか。

 さらに、右下の写真から(写真は略)、一日使った下着やハンカチは、かなり汚れることがわかります。ハンカチをきちんと使うこと、毎日取り替えることが健康を保つのにいかに大事なことであるか、よくわかったようです。

 持ってこないなど、論外です。

2025/03/18

学級だより №257・258

 № 257・258 2025年3月11日


 言葉は「生き物」です。

 例えば、「貴様」という言葉。もともとは、「あなた様」であったのが、江戸後期から目下や同輩に対して、もしくは罵る言葉として使われるようになりました。

 また、「鳥肌が立つ」という言葉。もともとは、恐い時や寒い時、あるいは不快感を表すのに使う言葉ですが、今では、「感動した」「素晴らしい」という場合にも使われるようになりました。

「新(あたら)しい」という言葉も、もともとは「新(あら)たしい」でした。それが江戸時代に「あらたし」をひっくり返して「あたらし」と言うようになり、それがいつしか正しい言葉になっていったそうです。

 言葉が時代とともに変化するのは、ある意味、当然のことなのかもしれません。

 とは言っても、前号の投稿記事にあるように、「自分の感じたことを多様な形で表現する」ことや、「時と場合にあった言葉遣いをする」こと、これらはとても大事なことであると思います。

 それは、時代が変わっても同じでしょう。

 ところで、以前受け持ったクラスで、ある保護者の方からこんなことを言われました。

「学級だよりに、子どもたちのしゃべっている場面が出てくることがありますね。それを読んでいると、どれもとてもていねいな言葉を使っているのですが、はじめは本当かなと思っていました。でも、学校公開で子どもたちの様子を見て得心しました。子どもたち、みんな立派ですね。」

 そこで、

「そうなんですよ。学級だよりに書いていることは、子どもたちの言葉そのままです。

 私に『ため口』をきく子はいません。」

 このクラスの子たちも、みんなそうです。

 ちなみに、ため口の「ため」とは、博打用語で「ぞろ目(同目)」を指した言葉だそうです。それが、1960年代から「五分五分」の意味で使われるようになり、その後、「対等」や「同じ」という意味でも使われるようになりました。さらに、「同年」「同級生」という意味にもなり、同い年の相手に話すような口のきき方を「ため口」というようになったそうです。


 話は変わって――

「了解しました。」という言葉を耳にすることがよくあります。また、「了解です。」と言う人もいたりします。

 部下が上司の指示や要請に対し、「分かりました。」という意味で使うようです。しかし、「了解」とは、「物事の内容や事情を理解して承認すること(デジタル大辞泉)」です。「承認」ですから、「了解」は、本来は、上の者が下の者に対して使う言葉です。

 それなのに、下の者が「了解しました。」を使うなんて、おかしいなぁ──この言葉を聞くたび、違和感を覚えます。また、「了解しました。」なら、まだ、ていねいな感じがしなくはないですが、「了解です。」は最悪です。

 ここはやはり「承知しました。」や「かしこまりました。」を使ってもらいたいもの。せめて「分かりました。」とすべきかなと思います。

 言葉は、時代と共に形を変えていく「生き物」であるとは言え、子どもたちには、正しい言葉を伝えていかなければいけないと思います。

 かく言う私も、間違った日本語を何気なく使っているかもしれません。気をつけなければ・・・・。


 余談ですが。

 私の住んでいる地区で、地方議会議員選挙があったときのことです。その選挙運動最終日に、ある候補者が選挙カーに乗って、家の前を通り過ぎました。その際、「最後のお願いに参りました。」と言いながら。

 ところが、それからほんの数十分後、また、家の前の通りに入ってきました。

「さっき、『最後のお願い』と言ったはずなのに。」──そう思ったのですが、その時、何とこう言ったのです。

「最後の最後のお願いに──。」

 その数十分後には、「最後の最後の、最後のお願いに──。」

 この候補者にとって、「最後」とは「一番おしまい」ではないのですね。

2025/03/11

学級だより №253

 № 253 2025年3月6日


 今日も百人一首についてです。

「百人一首をしましょう。」

──私がそう言うと、子どもたちはすぐに机の向きを変えます。そして、みんなで協力してカードを並べていきます。

 ゲームもテンポよく進んでいきます。

 とは言っても、はじめからそんなふうにできたわけではありません。

 百人一首には、ふだん使うことのない言葉が数多く使われています。なじみのない言葉です。ですから、ゆっくり読まなければ聞き取れません。

 また、札を取ると、うれしさのあまり、「やったー!」といった大声を出してしまいがちです。なかなか静かになりません。

 さらに、トラブルも起きたりします。

「私の方が先よ」「ぼくの方が速かったよ」「今のお手つきだよ」「お手つきなんかしていないよ」

──こういった調子ですから、ゲームが進んでいきません。はじめのうちは、1ゲーム(20枚)を終えるのに、すごく時間がかかってしまいました。

 このように書くと、このクラスは問題あり──というふうに聞こえるかもしれませんが、そういうことではありません。どこのクラスでも起こることです。むしろ、少ない方です。また、逆にはじめから何のトラブルも起きずスムースに進んだとしたら、その方が不思議な感じがします。

 さて、百人一首は楽しいですから、たとえどんなトラブルが起きたとしても「またやろう!」ということになります。

 そして、何回もやっていくうちに、「うるさくすると迷惑がかかる」「『自分が先だ!』と主張し続けるのはみっともないことだ」といったことを、体で理解できるようになります。

 ここまでくれば、しめたものです。

 そう言う意味では、百人一首というのは、「生きた道徳」であるとも言えます。もちろん、子どもたちには道徳の授業を受けている、などという意識はないでしょうが。

 子どもたち、すごいです。

2025/03/10

学級だより №252

  № 252 2025年3月5日


 今日は、百人一首についてです。

 4月から取り組んでいる百人一首の暗唱。みんな、とてもよくがんばりました。

 現在、100首全て暗唱した子は、24人。歌だけでなく、歌人の名前を覚えている子も数多くいます。

 そして、この暗唱は、子どもたちが自主的に行っているものです。「覚えなさい!」などと、担任が強制していることではありません。

 子どもたちが進んでやっていることなので、ゲーム自体もみんな大好き。

 札の入っている箱をみんなの前に持って行くと「やったぁ! 百人一首だ。」という感じになります。

 そして、札を取る速さもなかなかです。ほぼ全てのグループが、上の句を読んでいる間に札を取ってしまいます。速い子達の集まっているグループでは、はじめの2~3文字を読むか読まないかの間に取ってしまうのです。

 ですから、ゲームにかかる時間も短くてすみます。100首全部をやり終えるのに、15分もあれば十分。もちろん、準備と片付けの時間を含めてです。1枚にかかる時間は、正味6~7秒といったところでしょうか。

 こんな感じですから、授業で勉強することが早く終わった時など「百人一首でもやろうか」みたいにすることができます。

 ゲームに臨む姿勢も素晴らしいです。私は、札を読む時、わざと声のトーンを落として小さい声で読んでいるのですが、それでも、一番遠いところにいる子達も十分に聞き取っています。

 1ゲームは20枚ずつ、それを5ゲームするのですが、ゲームの合間合間の準備や片付けもみんなが協力しあってやっています。遊んでいたり、人任せにしている子はいません。

 歌をよく覚えていて、みんな協力的──そのおかげで、15分という短い時間でできるわけです。

 中学校では、多くの学校で「百人一首大会」をすると思いますが、この子達を連れていったら、きっと上位を独占することでしょう。

2025/03/08

学級だより №251

 № 251 2025年3月4日


 今日は、理科「じしゃくのせいしつ」についてです。

 先日の授業では、こんな「装置」を用意しました。

 クリップが空中に浮いている様子を見て、子どもたちはとっても不思議な感じがしたようです。

 そして、こんな問題を出しました。

「磁石とクリップの間に紙を入れます。クリップは落ちるでしょうか。」

 子どもたちの多くは「落ちない」と考えました。紙は薄いから──というのがその理由です。

 実際にやってみると──クリップは全く動きませんでした。子どもたちは「やっぱり」という表情でした。

 そのあと、「教科書」「布」「プラスチック製の下敷き」「竹のものさし」「銅板」を入れたらどうなるか考えました。子どもたちの多くは、これらを入れても「落ちない」と予想しました。やってみると──やはり、どれでためしても落ちませんでした。落ちないどころか、クリップは全く動かず。

 最後に鉄板を入れることにしました。これについても、子どもたちの多くは「落ちない」と予想しました。「銅板でも落ちないのだから、あんなに薄い鉄板を入れても落ちるわけはない。」──これが主な理由です。

 しかし、鉄板を近づけると──クリップはゆらゆら揺れ出しました。そして、間に入れると、ストンと落ちてしまいました。何度やっても同じ結果に。

 磁石の持つ磁力が鉄板でとどまり、クリップに届かなくなったため落ちたのです。

 この結果に子どもたちはビックリ。

 そのあと、はさみを開いて近づけ、チョキンとやると、やはりクリップは落ちました。

「何だか、糸が切られたみたい。」

2025/03/03

学級だより №249

№ 249 2025年2月28日


 前号のつづきです。

 ずっと以前、△△図書館に行ったところ、「不用本交換コーナー」に葉隠の原語と訳の書いてある解説書が置いてありました。読んでみると結構おもしろいのです。もちろん訳しか読んでいませんが。

 ちなみに、「はしがき」には、こう書かれていました。


      はしがき

「葉隠」という文字を見たとき、現代人の反応はさまざまであろう。戦前派および戦中派のあるものは、懐旧の思いをめぐらし、あるものは、ほろ苦い表情を示すに違いない。そして、戦後派のあるものは、「ハガクシ?」と首をかしげるかもしれない。

 佐賀藩に伝わる武士道の秘本「葉隠(はがくれ)」が「武士道とは死ぬることと見つけたり」の一節によってのみ記憶され、戦時中、若者達を死地にかりたてるスローガンとして乱用されたために、この古典が現在、正当な評価を受けていないのはやむを得ないことであったろう。終戦直後、占領軍の目をおそれてこの本を焼いた者もあったと聞く。

 だが、今日、冷静に読み直してみると、われわれはそこに学び取るべき多くのものを発見する。

     ──中略──

 もちろん、葉隠は封建制度を絶対的なものとして容認している。その成立条件を考慮することなく、現代に再生しようとすることは、ミイラに口紅をさすにひとしい。だが、泰平ムードの今日こそ、葉隠の中から前向きにくみとるべきものが少なくないのではあるまいか。

     ──後略


 こうしてみると、子育てというものは、いつの時代であっても本質的に変わることはないのかな、そんなふうに感じました。

 子どもを感情的に怒ってしまい、あとで「あ~あ、あんな言い方しなくてもよかったなぁ」・・・・こんな経験、だれもがお持ちだと思います。もちろん、私も。

 昭和36年頃の親も、江戸時代の親たちも、きっと同じような思いをしていたのでしょうね。そして、きっと未来の親である、このクラスの子たちも・・・・。 

学級だより №266