2023/08/26

発表してくれる人、いませんか? その2

 「発表してくれる人、いませんか?」のつづきです。

 先日、お伝えしたような取り組みをしても、手を挙げない子はいます。だいたい、この程度の取り組みで全員が手を挙げるようになったら楽なものです。

 その次は、このようにして「追い込む」ようにしています。

「(ノートに書いた感想を)発表しましょう。」

 こう言っても手を挙げない子がいたら、いったん、全員の手を下げさせます。

 そして、

「今、手を挙げなかった人は、ノートに何も書いていないのですか。

 手を挙げないのは、何も書いていませんと言っているのと同じことです。でも、そんなはずはありませんね。」

と言って、子どもたちを見回します。すると、手を挙げなかった子はバツの悪そうな顔をします。

 そこで、間髪を入れずに

「では、発表しましょう。」

 このようにして、手を挙げることは当たり前のことにするようにします。

 さて、以前受け持った子に、場面緘黙の子がいました。家では話すことができるようですが、人前では全く話すことはできません。

 それでも、その子は、授業中、よく手を挙げていました――手を挙げるようになりました。

 きっと「自分は(担任の出した)問題に答えられる。」――その意思表示をしたかったのでしょう。

 もちろん、仮にその子を指名したとしても――したことはありませんが――答えることはできなかったと思いますが。

 それでも、その姿勢はとてもうれしく感じました。

 そのことを保護者に伝えると、

「昨年まで、手を挙げることなど全くありませんでした。」

と、驚くと同時に、大変感激されていました。


 みんなで討論をし、学習が進んでいく――そういう授業はなかなかできるものではありません。

 でも、いつも決まった数人の子だけが手を挙げ、いつも決まった数人の子だけが発言をする――そういう授業だけはさけたいものです。








2023/08/22

発表してくれる人、いませんか?

 地区の教育研究会などで授業を拝見すると、こういう場面に出会うことがあります。

「(ノートに書いた感想などを)発表してくれる人、いませんか?」

  また、国語の授業では

「だれか、教科書を読んでくれる人?」

 私は、これは間違っていると思います。

 ノートに書いた感想は発表できるはずです。国語の教科書も読めるはずです。それなのに、なぜ、「発表してくれる人、いませんか?」などと「お願い」をする必要があるのでしょうか。

 これでは、「発表しなくてもいいですよ。」と言っているのと同じことです。

 実際、担任がこういうふうに言っている学級で手を挙げる子はほんのわずかです。

 そうではなく――。

 ノートに書いた感想は発表しなければいけません。国語の教科書は読まなくてはいけません。できないことではないのですから。

 学級開きの時、その指導をします。

「学校は勉強をするところです。自分を伸ばすためにあるのです。

 みなさんに質問します。ジャンプをして天井にさわることができる人は手を挙げましょう。

 だれもいませんね。先生もできません。みなさんが将来、背がとても高くなって、ジャンプ力もついたらできるようになるかもしれませんが、今はだれもできません。

 先生は、このようなできないことをしなさいとは言いません。

 しかし、できることは必ずやってもらいます。ここは勉強をするところ、自分を伸ばすためのところだからです。

 もう一つ、質問します。国語の教科書を読めない人がいますか。もちろん、読めない漢字が出てきたら教えます。そうすれば、読めない人はいませんね。

 ですから、教科書を読むように言われたら、手を挙げなくてはいけません。」


 子どもが挙手をする場面は、大きく2種類あると思います。

 一つは、自分の考えを発表する場面です。これは、考えを持っていなければいけませんから、全員が手を挙げるのは難しいかもしれません。

 もう一つは、感想の発表や音読に加え、「1+1は?」のように決まり切った答えを言う場面です。こういった場面では手を挙げるよう指導しなければいけないと思います。                     

    (つづく)


2023/08/21

おかわりをしてくれる人、いませんか?

 私の勤める小学校では、昨年度までコロナ対策として給食のおかわりの際は、教員がよそうようにしていました。担任だけでは手が回らないので、専科の教員にも手伝ってもらいながら。

さて、以前、ある教員が子どもたちに対して「おかわりをしてくれる人、いませんか?」と言ったのが耳に入ってきました。

また、よそったあと、その子に対して「ありがとうございます。」

「おかわりをしてくれる人?」「ありがとうございます。」――多分、残菜を少しでも減らしたくてそう言ったのでしょうが、これは変です。

おかわりは、教員が子どもにお願いすることではありません。ですから、「おかわりをしてくれる人?」はおかしいと思います。「おかわりをしたい人は手を挙げましょう。」と言うべきではないでしょうか。

また、「ありがとうございます。」もおかしいですね。お礼を言うのは、教員ではなくよそってもらった子どもの方です。

2023/08/18

了解です ???

 以前、ある学校で授業を参観したときのことです。

その学級の子どもたちが、担任に対してこんな言い方をしていました。

「先生、それって○○なの?」「○○してもいい?」

まるで、友達と話をしているように「タメ口」をきいていたのです。

それを聞いて唖然としたのですが、担任も担任で、それを許すばかりか、

「そうだよ。」「いいよ。」

などと返す始末・・・・。

話は変わりますが、

管理職や先輩から何か仕事を頼まれたとき

「了解です。」「了解しました。」

などと答える人、いませんか?

ご承知の通り、「了解しました。」は、丁寧語であって謙譲語ではありません。ですから、同僚や目下の人に対して使う言葉であって、管理職や目上の人に使うのは失礼にあたります。

「分かりました」の謙譲語は、「承知しました。」です。

でも、学校現場で「承知しました。」という言葉を聞くこと、あまりないような気がします。

そういえば――だれから聞いたのか忘れましたが、若い方に仕事を頼んだら

「オッケーです。」

と言われたことがあったとか。

2023/08/14

漢字の指導 その5

 私は、新卒の頃、子どもの漢字のノートに大きく「はなまる」をつけて返していました。「わぁ、『はなまる』をつけてもらった!」

と喜んでくれると思ったからです。

確かに、初日はそうでした。しかし、感激してくれたのはほんの数日間だけ。

きれいに書いても、適当に書いても「はなまる」なのですから、モチベーションを保てるわけはありません。子どもたちは、次第に手を抜くようになっていきました。

今はきれいに書けた字の右上に「◎」をつけ、コメントを添えるようにしています。手間はかかりますが、この方がはるかに効果的です。
しかし、ただ「◎」をつければ良いというものではありません。
せっかく時間をかけて「◎」をつけ続けたとしても、下の①~③がなければ、子どもはやる気を出しません。
上手にもなりません。
   ①担任の評価が心のこもったものであること。
   ②子どもが「どのように書けばきれいになるか」を理解すること。
   ③子どもが「上手になった」と実感できること。
この①~③があるからこそ、子どもは面倒な宿題であっても一生懸命取り組むのです。
そのうち、①について。

D・カーネギーは「人を動かす」の中でこのように述べています。

人を動かす秘訣は、この世にただ一つしかない。この事実に気づいている人は、はなはだ少ないよ
うに思われる。しかし、人を動かす秘訣は、間違いなく、一つしかないのである。すなわち、自ら動
きたくなる気持ちを起こさせること──これが、秘訣だ。
もちろん、相手の胸にピストルを突きつけて、腕時計を差し出したくなる気持ちを起こさせること
はできる。従業員を首切りでおどして、協力させることもできる──少なくとも、監視の目を向けて
いる間だけは。
鞭やおどし言葉で子どもを好きなように動かすこともできる。しかし、こういうお粗末な方法には、
常に好ましくない跳ね返りがつきものだ。
人を動かすには、相手の欲しているものを与えるのが、唯一の方法である。
(中略)
人間は、何を欲しがるのか?──たとえ、欲しいものはあまりないような人にも、あくまでも手に
入れないと承知できないほど欲しいものが、いくつかはあるはずだ。普通の人間なら、まず、次のよ
うなものを欲しがるだろう。
1・健康と長寿 2・食物 3・睡眠
4・金銭および金銭によって買えるもの
(中略)
このような欲求は、大抵は満たすことができるものだが、一つだけ例外がある。この欲求は、食物
や睡眠の欲求同様になかなか根強く、しかも、めったに満たされることがないものなのだ。
つまり、8番目の“自己の重要感”がそれで、フロイトのいう“偉くなりたいという願望”であり、
デューイの“重要人物たらんとする欲求”である。
優れた心理学者ウィリアム・ジェームズは、「人間の持つ性情のうちで最も強いものは、他人に認
められることを渇望する気持ちである」という。ここで、ジェームズが希望するとか待望するとかい
うなまぬるいことばを使わず、あえて渇望するといっていることに注意されたい。
これこそ人間の心を絶えずゆさぶっている焼けつくような渇きである。
(中略)
「なんだ、他愛のない! お世辞! ご機嫌とり! 古くさい手だ! そんな手は、とっくに実験ずみだ!
知性のある人間には、てんで効き目がない!」
読者のうちには、ここまで読んで、こう思っている方もあるだろう。
もちろん、お世辞は、分別のある人には、まず通用しないものだ、お世辞というのは、浅薄で、利
己的で、誠意のかけらもない。それが通用しなくてあたりまえだり、また、事実、通用しない。
お世辞と感嘆のことばとはどう違うか? 答えは、簡単である。後者は事実であり、前者は真実で
はない。後者は心から出るが、前者は口から出る。後者は没我的で、前者は利己的である。
(後略)

            D・カーネギー「人を動かす」(創元社)

2023/08/10

漢字の指導 その4

  IT機器がどんなに発達したとしても、漢字を手で書くことがなくなることはないでしょう。そして、その文字は他人に見せることも多いです。

 ですから、今よりもきれいな字を書けるようになってもらいたいものです。

 大事なことはたくさんあります。例えば──。

①一画目に気をつける

 以前、このブログに書きましたが、きれいな字になるかどうかの大事なポイントの一つが「一画目」。「一画目」の書き出しの位置が悪いのに、きれいな字が書けた──そんなのことはまずありません。お手本(漢字ドリル)をよく見て、マスのどこを通るのか注意深く書いてもらいたいものです。

②「へん」は細く 「つくり」は、太く


 子どもたちに「休」という字を書かせると、多くの子は上のようにしてしまいます。ていねいに書いているのはわかるのですが、これでは、バランスが悪いですよね。

 これは、漢字練習帳のマスが、十字に仕切られているからです。どこから書き始めて、どこを通って、どこで終わる──といったことを意識させるには有効ですが、このマスにあてはめてしまうと、こんな字になってしまいます。

「へん」と「つくり」の間があいているのも不格好です。


 一般に、「へん」と「つくり」のある漢字では、「へん」は細く、「つくり」は、太くなるように書かなければいけません。また、「へん」と「つくり」をくっつけて、すき間を作らないようにします。

 新しいクラスを受け持つと、左上のような字を書く子が多く見られます。しかし、指導すると、だんだん右上のようになってきます。

 余談ですが──

「外」や「教」のように、左右の幅が同じ漢字もありますね。これは、一体──。

 実は、「外」の部首は「夕(ゆうべ)」。「ゆうへん」とは言いません。また、「教」の部首は、右側の「攵(のぶん・ぼくにょう)」です。

③縦画が並んでいるときは、内側に絞るようにする。




 左側の漢字、ていねいに書いているのですが、何だかちょっと変ですね。幼い感じがします。

  原因は縦画です。縦画が真下に向かってのびているからです。

 4月に受け持ったときには大勢の子がこのように書いています。「縦画なのだから、当然、真下に書いていく」──無意識のうちにそうしていたのでしょう。

 縦画が2本並んでいるときは、右側のように間隔を狭める(絞る)ように書くと、格好のよい字になります。               (つづく?)



2023/08/08

漢字の指導 その3

 漢字の指導について、昨年度、下のような学級だよりを出しました。


  3年1組学級だより 4月25日 №15


「“大”という字がありますね。この一画目の書き始めは、上の図の1~3のどれでしょうか。」

 先日の国語の時間、子どもたちにそんな質問をしてみました。 

 子どもたちの考えは―― 圧倒的に多かったのは「2」でした。「1」や「3」だと考えた子はほんのわずかでした。

 確かに「1」は上過ぎる感じがします。また、「3」はかなり下という感じです。

「2」が一番適当といったところでしょうか。

 子どもたちは、そう考えたようです。

 予想が出そろったところで、1~3まで書いてみました。

「1」は論外ですが、「2」もバランスが悪いです。

 正解は、「3」。一画目の横線は、中央にかなり近いのです。

「大」と似ている「木」という字の一画目も「3」から書き始めると形のよい字になります。

「字がきれいに書けるかどうか、それは、一画目で決まります。一画目の位置が間違っていて、きれいな字になることはありません。

 出だしはどこからなのか、それをよく見て書きましょう。」

 そんな話をしました。

 子どもたちに字を書かせるとき、大人は「よく見て書きましょう。」と言ったりします。そして、言われた子どもも、実はよく見ているのです。しかし、どこをどのように見るのかがわかっていないため、せっかくよく見てもきれいな字にならない──そんなことになりがちです。

 出だしさえよく見れば、必ずきれいな字になる──というわけではありませんが、大きなポイントの一つであると思います。


2023/08/04

漢字の指導 その2


昨日のつづきです。

私は、昨年度3年生の担任をしました。上は、そのとき受け持った児童の漢字ノートです。右は4月の半ば頃、左はそれから2か月後のものです。


私は、子どものノートを開いたら、まず、きれいに書けた字を探します。そして、その字の右上に◎をつけます。真ん中につけないのは、せっかく書いた字が赤で隠れないようにするためです。

そして、最後に「がんばったね!」とか「今日もきれいに書いたね。」といったコメントを入れます。

「“はらい”は難しいのに上手になりましたね。」

と具体的にほめたりもします。

このようにすると、子どもたちはノートを返されたらすぐに開けて中を見るようになります。担任がどんなふうに評価してくれたか気になるからです。

そして、みんなニコニコ顔になります。ほめてもらって、うれしくないはずはありません。また、これを続けていると、子どもたちはノートを提出するとき、所定の場所に置く前に、私のところに開いて持ってくるようになります。ほめてもらいたい、認めてもらいたいからです。

そのノートを見て、私もうれしくなります。「すごい。今日もがんばってきたね。あとで、◎をたくさんつけて返すからね。」

これが、私のクラスの朝の日課になっています。

ちなみに、4月のはじめは、きれいに書けていない字があったとしても、あえて直さないようにしています。子どもたちと関係ができていないのに、悪いところを指摘しても受け入れてもらえないと思うからです。直しを入れるのは、2~3週間ほどたってから。その前に、直しを入れる基準を伝えておきます。どういう場合に直されるのかということを。

さて、私の学校では、4月の終わりから5月にかけて、家庭訪問を行っています。その頃には、どの子もみんなきれいな字が書けるようになってきています。それを保護者に伝えます。

子どものノートを見せながら

「お子さん、字がきれいになりましたね。はじめの頃と全然違うと思いませんか。本当によくがんばっていますね。」

そう言われたら、親はうれしいもの。それも、「お世辞」ではなく、心からの「賞賛」ですからなおさらです。

そして、

「担任がたくさんほめていたと、あとでお子さんに伝えてくださいね。」  (つづく?)



漢字の指導 その1

私は、昨年度3年生の担任をしました。上は、そのとき受け持った、ある児童の漢字ノートと漢字プリントです。


さて――。

先日、職場で漢字の宿題の添削をどのようにしているかが話題になりました。

その時、私はこんな話をしました。

「1ページに1つ、大きなまるや花まるをつけて返す──こういう先生、いますね。ほめてはいるのでしょうが、これだと漠然としすぎていてどこがよかったのか、よくわかりません。

また、はんこを押しておしまいという先生もいるようですが、これは論外です。子どもたちのがんばりを評価したとはとても思えません。それから、上手に書けていない字に赤を入れて直すという先生もいるかもしれませんが、それも感心しません。」

すると、ある若い先生から、

「だめなものを直すのが、なぜいけないことなのですか。」と聞かれました。

そこで、

「直すのがいけないのではありません。だめなところだけ指摘するのがいけないのです。私たちだってそうでしょう。例えば、通知表の所見の下書きを管理職に提出したら、だめ出しばかりされて真っ赤になって返ってきたとします。管理職としては、よりよい所見になってほしいという思いからそうしたのでしょうが、その思いは果たして伝わるでしょうか。『なるほど、指摘されたとおりだ。反省しなくてはいけない。』などと、思うでしょうか。

私は、決してそうは思いません。もし、そんなことをされたら『時間をかけて一生懸命書いたのだから、少しくらい認めてくれてもいいのに・・・・。』──そう思うことでしょう。

そうではなくて、『この書き方は○○なのでとてもいいです。』と具体的にほめてもらったり、『忙しい中、お疲れさまでした。』と、ねぎらいのコメントが入っていたりしたとしたらどうですか。うれしいですよね。これだったら、多少、指摘を受けたとしても、素直に受け入れることができるのではないでしょうか。

大人でさえそうなのですから、子どもはなおさらです。」  (つづく)


学級だより №64