市販の分度器って、角度の勉強を始めたばかりの子どもには、とっても使いづらいものです。60度なのか120度なのか、80度なのか100度なのか・・・・迷ってしまう子どもたち、とても多いと思います。
この点を解決しようと思って、こんな教具を作ってみました。
市販の分度器って、角度の勉強を始めたばかりの子どもには、とっても使いづらいものです。60度なのか120度なのか、80度なのか100度なのか・・・・迷ってしまう子どもたち、とても多いと思います。
この点を解決しようと思って、こんな教具を作ってみました。
№ 266 2025年3月21日
江戸時代中期に活躍した儒学者に、細井平洲という人がいます。米沢藩の名君、上杉鷹山の師としても知られた学者です。
この細井平洲が、教育について、こんなことを言っています。
教育とは、菊好きな人間が菊を作るようにしてはならない。
百姓が、野菜や大根を作るようにすべきなのだ。
なぜ、菊を作るようにしてはならないのでしょうか。
それは、菊を作る人には、自分の理想の「菊」があって、それにあわないもの、欠点が目につくものを摘み取ってしまうからです。2つか3つのつぼみを残して摘み取り、そのうちのたった1つで大輪の花を咲かせます。菊作りには素晴らしい方法でしょうが、子育てにあてはめるのは、大きなマイナスです。
では、農民が野菜を作るときはどうでしょうか。
欠点のあるものを、捨てるということはありません。畝に芽を出したものも、日陰で懸命に育っていくものも、大切に大切に慈しんで育てます。
子育てとは、このように、一人ひとりすべてを大切に育てていくことです。
条件が違っても、相手にあった方法で育てていくことです。
──現代は、江戸時代とは異なり、規格に合わない野菜は排除されるような傾向にあります。曲がったキュウリや大きさの合わないカボチャなどは、廃棄されたりしてしまいます。ですから、この言葉がそのままあてはまるわけではありません。
しかし、この考え方は好きで、いつもかくありたいものだ、「野菜作り」をしたいものだと思っています。
とは言いつつ、実際は「菊作り」をすることが多かったかなと反省しきりの1年間でした。
こんな担任でしたが、子どもたちはいろいろな面でとてもよく頑張ってくれました。教えるべき立場である私が、逆に教えられることもしばしばでした。
保護者のみなさまには、1年間、大変お世話になりました。本当にありがとうございました。 (終わり)
№ 265 2025年3月19日
以前、近所の方から聞いた話です。
「この間、私の義父が家で転び、動けなくなってしまいました。とても歩ける状態ではなかったので、急いで救急車を頼んだのですが、その際のことです。
私は、救急車に一緒に乗り、病院に向かいました。
救急隊の方は、みなさんとてもいい方ばかりでした。いろいろ声をかけてくださり、動転しかけていた気持ちも落ち着きかけてきました。
ところが・・・・。
交差点に差しかかったときのこと、
その先の信号は「赤」になっていました。そこで、救急隊の方は
『赤信号ですが、救急車は直進します。ご協力ください。』
と、アナウンスをしました。
こちらは緊急車両なのですから、まわりは譲ってくれるだろうと思っていたのですが・・・・。
目の前には、自分たちは青信号だから当然とばかり、横断歩道を堂々と渡っていく学生の集団が。
救急車は、その列がとぎれるのを待つしかありませんでした。
その時間がなんと長く感じたことか。
この様子を見た、救急隊の方曰く
『この頃は、こういう若者が多くて困っています。昔はこんなことはなかったのですが。』」
ちなみに、この「学生の集団」は、毎年、東大に大勢送り出している、超有名な進学校の生徒だとか。
「勉強ができることは素晴らしいことかもしれません。そして、そのために努力もしてきたことでしょう。しかし、その前に、人として学ぶべき、身につけるべき大事なことがあるのではないでしょうか。
うちの場合は、生死を分けるようなけがではなかったのでまだいいのですが、これが、本当に緊急を要するような方が乗られていて、仮にそのために、もしものことになったとしたらと思うと・・・・。」
№ 264 2025年3月18日
その昔、江戸は人口100万人の巨大都市でした。それに対して、お巡りさんの数はわずか30人足らず。それなのに、殺人事件は1年間に1件があったかどうかだったそうです。
どうしてそんなに治安がよかったのでしょうか。
作家でコラムニストの金平敬之助氏は、こう言っています。
「(それは、相手を思いやろうという)しぐさや言葉があったからです。しぐさや言葉が汚いと反発をくいます。それを江戸の人は知っていたから、皆で注意しましょうとしぐさや言葉を教えたのです。
260年間も平和を続けた国が他にどこにあるのでしょう。人間関係を良好にする知恵が、世界最高のレベルに達していたのです。
『お茶が入りました』という言い方がありますね。でも、お茶は勝手に入りますか。『お風呂が沸きました』──お風呂が勝手に沸きますか。ヨーロッパ人だったら、俺が薪を割ったのだ、俺が水を汲んだのだ、と必ず言います。ヨーロッパの人にはノーとはっきり言わないと伝わりません。日本人は、相手に負担をかけないような表現をします。これが奥ゆかしさ、相手を思いやるすごさです。
これに対し──。
『そんなことを言うのは3年早いよ!』『お父さん古いよ!』『この年まで何やってきた!』
このような、相手が何もいえない状態や返事のしようのない言葉を『戸締め言葉』と言います。江戸時代は、これを大変嫌ったのです。
『舌の紡ぎ出す言葉は、どんな切れ味のよい刃よりも猛毒を塗った矢よりも強い』
刀の傷というのは治りますが、言葉の傷は治りません。だから江戸時代には『あいすみません』が多く使われました。理由は濁音がないからです。それほど言葉に神経を使っていたのです。」
ある人は、
「戸締め言葉は、人の和を崩したり、人を傷つける最悪の言葉なのです。特に、家庭で、子どもに対して戸締め言葉を使うと親子の関係も複雑になり、子どもは心を開くことをしなくなります。」
と言っています。
言葉って、大事ですよね。いくら思いがあっても、言葉を発しなければ伝わりません。そして、その言葉次第で、相手の気持ちは良くも悪くもなるというもの。
こういう私自身が「戸締め言葉」をたくさん言っているような・・・・そんな気がしています。反省、反省。
№ 261 2025年3月14日
先週、子どもたちにこんなクイズを出しました。
時は18世紀。今のロシアに「ケーニヒスベルク」という街があり、そこに、「プレーゲル川」という川が流れていました。この街の住人がある日こう考えました。「街にある全ての橋を一度しか渡らずに全部回
れないだろうか?」と。そこで、街中の知識人が集まりあって挑戦しました。さて、どうやったらできるでしょうか。
子どもたちは、一斉に鉛筆を持ち、線をひいていきました。しかし──。
なかなかうまくいきません。いろいろ試してみたのですが、どうにも「正解」が見つからないのです。
「先生、橋を一本つけたしてもいいですか。」
「この橋を“爆破”すれば、できるんだけれど・・・・。」
もちろん、その二つとも×です。
そして、しばらくして、ある子が 「こんなの『無理』だよ。」
実は、この問題、その子が言ったとおり「無理」なのです。「街にある全ての橋を一度しか渡らずに全部回れないだろうか?」──それはできないことです。
まるで、一筆書き、というか、正に一筆書きです。
一筆書きというと、右のような問題をよく見かけます。ちなみに、これは一筆書きでかけます。右のような図形は一筆書きができますが、左はできません。一筆書きができるためには、数学的な条件がそろっていなければいけません。ということで、上の問題は、れっきとした数学の問題なのです。そして、数学には「できない──解なし」という答えもありますよね。
もっとも、子どもたちは数学をしているなどという意識はなかったことでしょうが。
№ 260 2025年3月13日
今日は、保健の学習について。
3年生から始まった保健の学習。健康や人体、心に関することなど、その学年に応じて学習をしていきます。授業の時間は年に数時間ですが、しっかり勉強してもらいたいと思います。
さて、先日はこんなことをしてみました。
まず、子どもたちにコットンを1枚ずつ渡し、
「これを水に濡らしてしぼってきましょう。」
と伝えました。
準備ができたところで、
「このコットンで手をふいて、よごれがついているかどうか、ためしてみましょう。」
子どもたち、さっそく始めました。すると、
「わー、黒くなった。」「ぼくも。」「私のは、全然黒くならない。」
──そんな声があちらこちらから。
ちなみに、この授業は3年生を受け持ったときには必ず行うようにしていますが、今までで一番成績が良かったのは、2年前に受け持った3年生です。コロナ禍のこともあり、登校時、20分休み・昼休みのあと、給食の前など、だれに言われなくてもすすんで手を洗っていました。
それに対して、今は、手洗いをしなければいけないという意識が薄れてきたような――そんな感じがします。ご家庭では、きちんと洗っているでしょうか。
授業では、そのあと、教科書に載っている右の写真を見ました(写真は略)。手を洗う時、水だけではほとんど効果がないことがわかります。
また、きちんと洗うには1分ほど時間が必要だとか。
さらに、右下の写真から(写真は略)、一日使った下着やハンカチは、かなり汚れることがわかります。ハンカチをきちんと使うこと、毎日取り替えることが健康を保つのにいかに大事なことであるか、よくわかったようです。
持ってこないなど、論外です。
№ 257・258 2025年3月11日
言葉は「生き物」です。
例えば、「貴様」という言葉。もともとは、「あなた様」であったのが、江戸後期から目下や同輩に対して、もしくは罵る言葉として使われるようになりました。
また、「鳥肌が立つ」という言葉。もともとは、恐い時や寒い時、あるいは不快感を表すのに使う言葉ですが、今では、「感動した」「素晴らしい」という場合にも使われるようになりました。
「新(あたら)しい」という言葉も、もともとは「新(あら)たしい」でした。それが江戸時代に「あらたし」をひっくり返して「あたらし」と言うようになり、それがいつしか正しい言葉になっていったそうです。
言葉が時代とともに変化するのは、ある意味、当然のことなのかもしれません。
とは言っても、前号の投稿記事にあるように、「自分の感じたことを多様な形で表現する」ことや、「時と場合にあった言葉遣いをする」こと、これらはとても大事なことであると思います。
それは、時代が変わっても同じでしょう。
ところで、以前受け持ったクラスで、ある保護者の方からこんなことを言われました。
「学級だよりに、子どもたちのしゃべっている場面が出てくることがありますね。それを読んでいると、どれもとてもていねいな言葉を使っているのですが、はじめは本当かなと思っていました。でも、学校公開で子どもたちの様子を見て得心しました。子どもたち、みんな立派ですね。」
そこで、
「そうなんですよ。学級だよりに書いていることは、子どもたちの言葉そのままです。
私に『ため口』をきく子はいません。」
このクラスの子たちも、みんなそうです。
ちなみに、ため口の「ため」とは、博打用語で「ぞろ目(同目)」を指した言葉だそうです。それが、1960年代から「五分五分」の意味で使われるようになり、その後、「対等」や「同じ」という意味でも使われるようになりました。さらに、「同年」「同級生」という意味にもなり、同い年の相手に話すような口のきき方を「ため口」というようになったそうです。
話は変わって――
「了解しました。」という言葉を耳にすることがよくあります。また、「了解です。」と言う人もいたりします。
部下が上司の指示や要請に対し、「分かりました。」という意味で使うようです。しかし、「了解」とは、「物事の内容や事情を理解して承認すること(デジタル大辞泉)」です。「承認」ですから、「了解」は、本来は、上の者が下の者に対して使う言葉です。
それなのに、下の者が「了解しました。」を使うなんて、おかしいなぁ──この言葉を聞くたび、違和感を覚えます。また、「了解しました。」なら、まだ、ていねいな感じがしなくはないですが、「了解です。」は最悪です。
ここはやはり「承知しました。」や「かしこまりました。」を使ってもらいたいもの。せめて「分かりました。」とすべきかなと思います。
言葉は、時代と共に形を変えていく「生き物」であるとは言え、子どもたちには、正しい言葉を伝えていかなければいけないと思います。
かく言う私も、間違った日本語を何気なく使っているかもしれません。気をつけなければ・・・・。
余談ですが。
私の住んでいる地区で、地方議会議員選挙があったときのことです。その選挙運動最終日に、ある候補者が選挙カーに乗って、家の前を通り過ぎました。その際、「最後のお願いに参りました。」と言いながら。
ところが、それからほんの数十分後、また、家の前の通りに入ってきました。
「さっき、『最後のお願い』と言ったはずなのに。」──そう思ったのですが、その時、何とこう言ったのです。
「最後の最後のお願いに──。」
その数十分後には、「最後の最後の、最後のお願いに──。」
この候補者にとって、「最後」とは「一番おしまい」ではないのですね。
№ 253 2025年3月6日
今日も百人一首についてです。
「百人一首をしましょう。」
──私がそう言うと、子どもたちはすぐに机の向きを変えます。そして、みんなで協力してカードを並べていきます。
ゲームもテンポよく進んでいきます。
とは言っても、はじめからそんなふうにできたわけではありません。
百人一首には、ふだん使うことのない言葉が数多く使われています。なじみのない言葉です。ですから、ゆっくり読まなければ聞き取れません。
また、札を取ると、うれしさのあまり、「やったー!」といった大声を出してしまいがちです。なかなか静かになりません。
さらに、トラブルも起きたりします。
「私の方が先よ」「ぼくの方が速かったよ」「今のお手つきだよ」「お手つきなんかしていないよ」
──こういった調子ですから、ゲームが進んでいきません。はじめのうちは、1ゲーム(20枚)を終えるのに、すごく時間がかかってしまいました。
このように書くと、このクラスは問題あり──というふうに聞こえるかもしれませんが、そういうことではありません。どこのクラスでも起こることです。むしろ、少ない方です。また、逆にはじめから何のトラブルも起きずスムースに進んだとしたら、その方が不思議な感じがします。
さて、百人一首は楽しいですから、たとえどんなトラブルが起きたとしても「またやろう!」ということになります。
そして、何回もやっていくうちに、「うるさくすると迷惑がかかる」「『自分が先だ!』と主張し続けるのはみっともないことだ」といったことを、体で理解できるようになります。
ここまでくれば、しめたものです。
そう言う意味では、百人一首というのは、「生きた道徳」であるとも言えます。もちろん、子どもたちには道徳の授業を受けている、などという意識はないでしょうが。
子どもたち、すごいです。
№ 252 2025年3月5日
今日は、百人一首についてです。
4月から取り組んでいる百人一首の暗唱。みんな、とてもよくがんばりました。
現在、100首全て暗唱した子は、24人。歌だけでなく、歌人の名前を覚えている子も数多くいます。
そして、この暗唱は、子どもたちが自主的に行っているものです。「覚えなさい!」などと、担任が強制していることではありません。
子どもたちが進んでやっていることなので、ゲーム自体もみんな大好き。
札の入っている箱をみんなの前に持って行くと「やったぁ! 百人一首だ。」という感じになります。
そして、札を取る速さもなかなかです。ほぼ全てのグループが、上の句を読んでいる間に札を取ってしまいます。速い子達の集まっているグループでは、はじめの2~3文字を読むか読まないかの間に取ってしまうのです。
ですから、ゲームにかかる時間も短くてすみます。100首全部をやり終えるのに、15分もあれば十分。もちろん、準備と片付けの時間を含めてです。1枚にかかる時間は、正味6~7秒といったところでしょうか。
こんな感じですから、授業で勉強することが早く終わった時など「百人一首でもやろうか」みたいにすることができます。
ゲームに臨む姿勢も素晴らしいです。私は、札を読む時、わざと声のトーンを落として小さい声で読んでいるのですが、それでも、一番遠いところにいる子達も十分に聞き取っています。
1ゲームは20枚ずつ、それを5ゲームするのですが、ゲームの合間合間の準備や片付けもみんなが協力しあってやっています。遊んでいたり、人任せにしている子はいません。
歌をよく覚えていて、みんな協力的──そのおかげで、15分という短い時間でできるわけです。
中学校では、多くの学校で「百人一首大会」をすると思いますが、この子達を連れていったら、きっと上位を独占することでしょう。
№ 251 2025年3月4日
今日は、理科「じしゃくのせいしつ」についてです。
先日の授業では、こんな「装置」を用意しました。
クリップが空中に浮いている様子を見て、子どもたちはとっても不思議な感じがしたようです。
そして、こんな問題を出しました。
「磁石とクリップの間に紙を入れます。クリップは落ちるでしょうか。」
子どもたちの多くは「落ちない」と考えました。紙は薄いから──というのがその理由です。
実際にやってみると──クリップは全く動きませんでした。子どもたちは「やっぱり」という表情でした。
そのあと、「教科書」「布」「プラスチック製の下敷き」「竹のものさし」「銅板」を入れたらどうなるか考えました。子どもたちの多くは、これらを入れても「落ちない」と予想しました。やってみると──やはり、どれでためしても落ちませんでした。落ちないどころか、クリップは全く動かず。
最後に鉄板を入れることにしました。これについても、子どもたちの多くは「落ちない」と予想しました。「銅板でも落ちないのだから、あんなに薄い鉄板を入れても落ちるわけはない。」──これが主な理由です。
しかし、鉄板を近づけると──クリップはゆらゆら揺れ出しました。そして、間に入れると、ストンと落ちてしまいました。何度やっても同じ結果に。
磁石の持つ磁力が鉄板でとどまり、クリップに届かなくなったため落ちたのです。
この結果に子どもたちはビックリ。
そのあと、はさみを開いて近づけ、チョキンとやると、やはりクリップは落ちました。
「何だか、糸が切られたみたい。」
№ 249 2025年2月28日
前号のつづきです。
ずっと以前、△△図書館に行ったところ、「不用本交換コーナー」に葉隠の原語と訳の書いてある解説書が置いてありました。読んでみると結構おもしろいのです。もちろん訳しか読んでいませんが。
ちなみに、「はしがき」には、こう書かれていました。
はしがき
「葉隠」という文字を見たとき、現代人の反応はさまざまであろう。戦前派および戦中派のあるものは、懐旧の思いをめぐらし、あるものは、ほろ苦い表情を示すに違いない。そして、戦後派のあるものは、「ハガクシ?」と首をかしげるかもしれない。
佐賀藩に伝わる武士道の秘本「葉隠(はがくれ)」が「武士道とは死ぬることと見つけたり」の一節によってのみ記憶され、戦時中、若者達を死地にかりたてるスローガンとして乱用されたために、この古典が現在、正当な評価を受けていないのはやむを得ないことであったろう。終戦直後、占領軍の目をおそれてこの本を焼いた者もあったと聞く。
だが、今日、冷静に読み直してみると、われわれはそこに学び取るべき多くのものを発見する。
──中略──
もちろん、葉隠は封建制度を絶対的なものとして容認している。その成立条件を考慮することなく、現代に再生しようとすることは、ミイラに口紅をさすにひとしい。だが、泰平ムードの今日こそ、葉隠の中から前向きにくみとるべきものが少なくないのではあるまいか。
──後略
こうしてみると、子育てというものは、いつの時代であっても本質的に変わることはないのかな、そんなふうに感じました。
子どもを感情的に怒ってしまい、あとで「あ~あ、あんな言い方しなくてもよかったなぁ」・・・・こんな経験、だれもがお持ちだと思います。もちろん、私も。
昭和36年頃の親も、江戸時代の親たちも、きっと同じような思いをしていたのでしょうね。そして、きっと未来の親である、このクラスの子たちも・・・・。
№ 248 2025年2月27日
先週の「昔の○○小PTA新聞の話」と関連して
■人を批判する方法
人に意見をして、その欠陥を改めさせるというのは、大慈悲のあらわれであり、つとめの最も大切なことの一つである。しかし、そのやり方には大いに苦心を要する。
人のことについて、その善悪を発見するのはたやすいことであり、それを批判するのも簡単なことだ。
大抵の人は、人のいやがる、言いにくいことを言ってやるのが親切だと心得、それが受け入れられなければ、仕方のないことだとしているようだ。これは、何の利益にもならない。
結果として人に恥をかかせ、悪口を言うのと同じことであり、言う側の気晴らしに過ぎない。
人に意見を言う際には、まず、相手がそれを受け入れる気持ちがあるかどうかよく判断し、互いに心を打ち明けあうほどの仲となり、こちらの言葉を信頼するような状態にしなければならない。
その上で、趣味のことなどから気持ちを引き、言い方、言う時期などをよく考え、手紙を利用し、暇乞の折にふれ、あるいは自分自身の弱点や失敗の話などをして、直接相手に意見をせずとも思い当たるようにするのがよい。また、まず相手の長所をほめ、気分を引き立てておいて、ちょうど喉のかわいた時に水を欲するように、こちらの言い分を自然に受け入れさせ、欠陥をなおしていくのが本当の意見である。大変むずかしいものである。
誰しも欠陥、弱点というのは、長い間しみついているものであるから、一とおりのことで直せるものでないことは、自分にも覚えがある。同僚同士がお互いに親しくなりあって、その欠陥をただしあい、一つ心になってつとめるようになることこそ、真の大慈悲である。
いたずらに人を辱めて、どうしてこの目的を達することができようか。
この文章、もちろん私のものではありません。では、どこから引用したものかというと……。
これは、300年近く前に書かれた「葉隠(はがくれ)」の一節です。江戸時代のものなのに、今に通じるものがあると思いませんか? (つづく)
№ 242・243 2025年2月21日
前号と関連して(前号は略)。
子どものこと、いつでもほめていたいものですが、そういうわけにはいきません。悪いことをしたときには、きちんとしからないと・・・・。
そのことと関連して。
PTA文化部では、去る11月25日、○○小学校に東京学芸大学教授、□□□□先生を招いて、「反抗期・思春期にある子供の扱い方」という題で1時間半にわたり、講演していただきました。
2教室打ち抜いた会場を、いっぱいにうずめた2百余名の参加者は、具体的な事例をまじえて、興味深く話される先生の話に、深い共感を呼び、残された30分の質問時間も足りぬほどでした。
これは、前々任校のPTA新聞(昭和36年)からの抜粋です。
さて、この講演でどんなお話がされたかたというと・・・・。
○○小PTA新聞 №16 昭和36年12月20日発行
「感情でぶったり、なぐったりしても、子供の反省にならない」
昔は、躾方として、子供は家でも学校でもよくなぐられた。妙なことで、そんなにやられても、子供はどんな悪いことをしたのかさっぱり解らないでいることが多い。
これは、気分や感情で打っているからである。これでは、二度とやるまい、などという気が子供におきてこない。ぶったり、おどかしたりは躾としてよくない。それによって、不良になった例もある。叱ってもよいが、悪いことを相手に納得させ、直してあげようという心がけが大切である。
子供の顔を見ると、文句ばかり言っていると「また始まったから逃げちゃえ」ということになる。薬も使いすぎるとよくない。ここは一発という時にし、乱用しないこと。そして、どこかに逃げ道を作っておいて、悪いと気がついたら許してあげることです。
「叱り方の注意」
低学年では、その場で叱る。後では効果がない。他の人や兄弟の前では絶対いけない。
体の小さいだけが子供なのではない。考え方も子供である。それを、大人のようなことをしろと期待するからいけない。大人の都合のよいことをもって躾としているが、時代とともに子供も進んできているから、こんな躾ではだめです。
「子供のやったことを正当に認めてやる」
子供の言い分として「勉強したことをちょっとでも認めてほしい」というのが多い。この認めてあげることの意味は心理学の法則でもある。かといって、なんでもほめてあげることではない。大切なことは、子供の気持ちを上向きにのばしてあげるよう仕向けることである。
他の人や兄弟と比較して、悪くいうことは絶対よくない。非行原因の主な理由はこの兄弟との比較である。子供のよいところを認めてよくしていくのが根本だ。認められないと思うと、反抗の原因にもなる。
思春期の特徴としては、自分に目覚めてくること、鏡を見る回数が多くなったら、青年期に入ったと思ってよい。自分はどんな人間かつかもうとしている。この頃になると、自分を自分で試してみようとする気が出てくる。これを、親が解らないでだた怒るのは、子供を認めていないことになる。そうすると、問題が出てくる。
昭和36年と言えば、60年以上も前のこと。今とは時代が違うはずなのに、この考え方は、現在でも十分通用すると思いませんか?
「感情でぶったり、なぐったりしても、子どもの反省にならない」
「子どものやったことを正当に認めてやる」
「他の人や兄弟と比較して、悪くいうことは絶対よくない」・・・・
まさに、その通りだなと思います。
№ 238 2025年2月17日
前号と関連して。
前任校最後の年、教育実習生を受け持ちました。その時の話です。
「担任の一番大事な仕事、それは授業ですね。しかし、それだけではなく、生活面もしっかり教えてあげなければいけません。
例えば、給食。ご飯は一粒残らずきれいに食べること、片付けた箸は向きをきちんとそろえること――こういったことはとても大事ですし、きちんと身につけさせなければいけません。そして、このことは作ってくださった給食室の方への感謝の気持ちを伝えるという意味もあるのです。」
実習生にそんな話をしたところ
「今の話、とてもよくわかります。
私は、カレーハウスでアルバイトをしていますが、お客さんにはいろいろな方がいます。 きれいに食べ切り、使った食器やコップ、おしぼりなどをきちんとよせてくれると、とてもうれしい気持ちになります。
反対に、テーブルの上がひどい状態になっていると・・・・。」
そこで、
「確かにその通りですね。お客さんはお金を払っています。ほかの客に迷惑をかけないかぎり、テーブルの上がどのようになっていても文句をつけることはできません。しかし、それでもいかがなものでしょう。
使ったものは中央に寄せるとか、同じ食器は重ねておくとか──そのくらいはしてもよさそうなものなのです。そして、その手間は大したことはありません。」
ファミリーレストランなどでの外食は、とても楽しい時間です。と同時に、上のことを子供に教える、よい機会だと思います。
相手に対する気遣い――それを子どもたちに教えるのは大人の責任です。
家庭と学校が連携をして──このことは家庭が主体となるでしょうが──子どもたちに働きかけていく必要がある──そう感じます。
余談ですが、その実習生は今、縁あって前任校で担任をしています。
№ 237 2025年2月14日
先日、久しぶりにファミリーレストランで食事をしました。
その時のことです。
私の席のとなりに、ある家族連れが座っていました。
すでに食事を終え、席を立とうとしていたのですが──。
テーブルの上を見てビックリ。散らかし放題。ものすごい有様でした。
使ったものは中央に寄せるとか、同じ食器は重ねておくとか──そのくらいはしてもよさそうなものなのに。そして、その手間は大したことはないはずなのに。
お店の人がこれを片づけて、次のセッティングをするのは、きっと大変だろうなあと思ってしまいました。
もちろん、ほかの客に迷惑をかけているわけではありません。また、お金を払って食事をしているわけですから、文句をつけることでもないのかもしれませんが、それでもいかがなものでしょう。
そうかと思えば──
そのちょうど反対側にいたご家族は、それはそれはきちんと整えて退席していました。
両者のあまりの違いに、言葉も出ません。そんな感じでした。
「食事をしたら、きちんと(できる範囲で)片づける。」
ファミリーレストランでの食事は、とても楽しい時間です。と同時に、上のことを子どもに教える、よい機会だと思います。
この学級だよりで、何度か給食のことを取り上げてきましたが、片づけを含め、マナーよく食事をすることは、相手に対する気遣いです。そして、それを子どもたちに教えるのは大人の責任です。
家庭と学校が連携をして──家庭が主体となるでしょうが──子どもたちに働きかけていく必要がある、そう感じています。
お子さんの食事のマナーや片づけの様子、いかがですか。
№ 233 2025年2月10日
今日は、理科についてです。
理科では、今、「じしゃくのせいしつ」という学習をしています。
先週の理科の時間、こんな問題を出してみました。
「次のお金のうち、磁石につくものはどれでしょう。」
子どもたちに提示したお金は、次の通りです。
1円玉 5円玉 10円玉 100円玉 500円玉 1万円札
さらに、おまけとして、昔の50円玉も試してみることにしました。
「では、まず、1円玉で試してみますよ。1円玉、磁石につくと思う人?」
すると、半数ほど子が手を挙げました。
1円玉はアルミニウムでできています。「アルミニウム =(イコール) 金属 =(イコール) 磁石につく」――このようにイメージしたようです。
しかし――1円玉は全く反応しません。これを見て、子どもたち、意外に思ったようです。
続いて、5円玉。先の1円玉の結果を見て、「5円玉もつかないのではないか」――教室の中はそのような空気に包まれました。
実験をしてみると――つきません。「やっぱり」・・・・そういう声が聞かれました。
その後、10円玉・100円玉・500円玉を試してみましたが、当然のことながらつきません。
しかし、用意したお金の中に、つくものもあったのです。
それは何と1万円札。
もちろん、ピタッとくっつくわけではありませんが、右の写真のようにして磁石を動かすと、1万円札が回ります(写真は略)。
5千円札も千円札も同様です。子どもたちは不思議そうな顔をして見ていました。
では、なぜそうなるかというと、印刷に使われているインクに、微量ながら鉄分が含まれているからだそうです。
「磁石につくものは、鉄です。1円玉や5円玉などは、アルミニウムや真鍮などの金属でできていますが、鉄が含まれているわけではありません。ですから、磁石には反応しません。」
しかし、旧50円玉だけは磁石につきます。「硬貨は磁石にくっつかない。」――そう思っていただけに、これを見た子どもたちはビックリ。
旧50円玉は、ニッケル100%でできています。
それに対して、現在の50円玉や100円玉は、銅75%、ニッケル25%。
純粋なニッケルは磁石につきますが、合金はつきません。
余談ですが――。この旧50円玉を職員室で見せたところ、初めて見たという職員がほとんど。
でも、年配の先生方は一言、「懐かしい・・・・。」
№ 232 2025年2月7日
「花のJKです。授業中、いきなり百人一首を言わされましたが、当たっていました。国語の先生に一目置かれています。友だちにも尊敬されました。──後略」
8年前のこと。このような年賀状をもらいました。これをくれたのは、以前、5・6年生の時に受け持った子です。当時、高校1年生。今は社会人になっています。
話は変わりますが──。
30年ほど前になるでしょうか。
「先生、百人一首のおかげで高校に合格しました!」
私の受け持ったある子が中学3年生になり、高校受験の結果を報告にきてくれました。そのとき、上のようなことを言っていたのです。どういうことかというと・・・・。
その子が受験した高校で、面接の際、面接官が「あなたの特技は何ですか?」と聞いてきました。その子は、運動が得意で、平泳ぎで地区の大会で優勝するほどの実力の持ち主だったのですが、そのとき、とっさに出た言葉が「百人一首を全部言えます!」
その面接官は国語が専門で、そのあと百人一首を何首も聞いてきたそうです。その子は、当然スラスラ答えられたわけですが、面接官は、それにいたく感激したとか。
もちろん、百人一首だけで高校に合格できたわけではないでしょうが、好印象を得られたことは間違いないでしょう。
このほか、「中学の百人一首大会で、受け持ったクラスの子が上位を独占した。」など、小学校を卒業した後、百人一首に関するうれしい報告、今まで何度も受けました。
私は、百人一首が好きです。正確に言うと、「子供たちと取り組む百人一首」が好きです。それは、百人一首にはすばらしい魅力がたくさんあるからです。
このクラスの子どもたちも、みんなとてもよくがんばっています。私は、一度も「覚えなさい。」と言ったり宿題に出したりしたことはないのですが、みんな自分からすすんでたくさん覚えました。
仮に、本市でクラス対抗百人一首大会のようなものがあったら、優勝できるのではないか――そう思っています。
本当にすごいです。
№ 231 2025年2月6日
「初めてにしては、よくできたね。」
「初めてなのに、よくできたね。」
どちらも、相手をほめるときに使う言葉です。そして、どちらも似たような言い方です。しかし、受け取る側からすれば、かなり意味合いが違ってくるような気がします。
以前、ある教育評論家の話を聞く機会がありました。なかなかいいことを言うなあと思って聞いていたのですが、ところどころ???と思うところもありました。
例えば──。
「先日、ある学級の音楽の授業を見る機会がありました。そのクラスは、20人という小さなクラスです。しかし、20人にしては、大きな歌声でした。」
それを聞いて、私は 「?」 と思いました。
「~にしては」というのは、標準よりは優れているという意味です。しかし、及第点はやれるが、驚くほどのものではない、予測の範囲内の内容だという気持ちが含まれています。
この「~にしては」と同じような言葉に「~なのに」があります。
これは、「~にしては」と違い、予想以上のものを見聞きしたときに使う言葉です。冒頭の「初めてなのに~」というのは、ここまでできるとは思ってもいなかった、予測を超えている、素晴らしい、という感じでしょうか。
ですから、当然評価される側からすれば、「~にしては」よりも「~なのに」と言ってもらった方がうれしいと思います。
さらに言えば、この「~なのに」などという言葉も一切捨て去って、ただ単に「よくできたね。」と言われた方がうれしい場合もあるかもしれません。
「~にしては」にしても「~なのに」にしても、言葉自体それほど大きな違いがあるわけではありません。そして、どちらもその行為に対して敬意を払って言った言葉のはずです。
しかし、受け取る側がそれを好意を持って受け止めるかというと、???となることが往々にしておきるものです。
人に意見をするのも難しいものですが、人をほめるのもまた、難しいものです。
№ 229 2025年2月5日
雪を見ると、思い出すことがあります。
もう何年も前の土曜日(休校日)のこと。この日は何年かぶりの大雪が降ったのですが、近所にお住まいの方がこんなことをおっしゃっていました。
この方には、小学校低学年のお子さんがいます──今は、大きくなっていますが。
「この日、わが家は、朝から大変でした。
子どもが『早く、外で遊びたい!』──それはそれでいいのですが・・・・。
朝ご飯をなかなか食べようとしない。そのあとの歯磨きや洗顔もゆっくり。自分でやることになっている上ばき洗いもやろうとしない。
『そんなにのんびりやっていたら、雪がやんで解けちゃうわよ!』って、怒ってやりました。
それがやっと終わって、遊ぶ支度になったら、また大変。
『手袋はどこ?』だの、『何を着ていったらいいの?』だの、いちいち聞いてきます。
そして、『お母さん、この格好でいい?』と着替えた姿を見て、がっくり・・・・。
『そんな、網の帽子なんかかぶっても、意味ないでしょ!』
『そんな格好じゃ、寒いわよ!』
──結局、全部やりなおし。
あまりに腹が立ったので、
『雪遊びがしたいなら、自分で支度が全部できるようになってからしなさい!』」
この調子なら、遊びから帰ってきたら、また、文句の一つや二つ、言われたことでしょうね。「こんなにびしょびしょになるまで遊んで! 風邪でもひいたらどうするの!」といった感じに。
でも、子どもって、いろいろな意味で大人に「面倒」をかける存在、そして、それが子どもの仕事の一つなのかもしれません。
だいたい、自分で支度が全部できるようになった頃には、もう雪遊びなんぞに興味はなくなっていることでしょう。
わが子が面倒をかけているときは、「いい加減にしてほしい。早く大きくなってほしい。」と思うものですが、大きくなってそれがなくなると、また、さみしいもの。
親って、実に身勝手な存在です。
その身勝手な親には、私も含まれています。
№ 225・226 2025年1月31日
今日も理科についてです。
昨日、お伝えしたとおり、理科では今、「電気の通り道」という学習をしています。
先週の授業では、こんな活動をしました。
「どんな物が電気を通すか、調べてみましょう」
左の図のように、導線と導線の間に物を入れ、明かりがつくか試してみました(図は略)。
調べたものは、左の下の表の通りです。
このプリントを渡すと、ある子からこんな質問が。「先生、“仁丹(じんたん)”って何ですか。」
そこで、実物を渡し
「これが“仁丹”です。薬のような物です。銀色をしています。」
子どもたちの中で、見たことがあると答えた子は、一人もいませんでした。無理もないでしょうね。
そのあと、さっそく実験に取り組みました。
「竹のものさしも、三角じょうぎも、つまようじも電気を通しません。」
「アルミはくやクリップは電気を通します。」
こんな声があちらこちらから聞こえてきました。
ところで、おり紙の銀紙やおり紙の金紙、仁丹は、電気を通すと思いますか。
まずは、おり紙の銀紙。これは電気を通します。銀紙は、紙にアルミニウムなどの金属を貼り付けて作られています。ですから、電気を通すのです。
続いて、おり紙の金紙。
これも電気を通すと思いきや、残念ながら通しません。この結果に、多くの子がビックリしていました。「銀紙は電気を通すのに・・・・。」
一般に、おり紙の金紙は銀紙を金色の塗料でコーティングして作られています。塗料ですから、電気を通しません。しかし、金色の部分を紙やすりなどで磨くと、下の銀色(アルミニウム)が出てきます。そうすれば、電気を通します。
最後に仁丹。これは、電気を通します。仁丹は銀色をしていますが、これは、何と本物の銀――銀箔なのだそうです。なぜ、銀でコーティングをしているのかというと、銀の殺菌効果で保存性を高めるためだとか。
金属の銀がまかれているということを話すと、ある子からこんなつぶやきが聞こえてきました。
「金属を食べても大丈夫なのかな?」
そこで、
「不思議な感じがしますね。でも、何の問題もありません。」
鉄やアルミニウム、銅などの金属は、電気を通す──先週は、そのような学習をしました。